昭和45年8月4日 朝 御理解 第4節



「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。(2)金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。なるほど教祖金光大神様の御信心によって天地金乃神様と言う神様がこの世に出現というですかね、昔からまあ天地金乃神は昔からある神ぞとこう仰る。???それを、現すだけまた神様がそれをご依頼をなさる如しの方がおられなかったと言う事ですね。この方のような実意丁寧の神信心のできる氏子は知らんとこう教祖様も天地金乃神様も言うておられるくらいですね。ですからそういう、例えば、教祖様を発見されたというか、時の天地の親神様のお喜びようというのは大変なものだっただろうとこう思いますね。これからは天地金乃神様の願いというかねものが、あの金光大神を通して、えーお伝えになる事ができると。それはですねまあ思いますのに、たくさんの宗教がございますよね、色んな信心がたくさんありますけれども、んーなるほど天地金乃神様が教祖金光大神に現れて教えておられるような、んーその宗教というのは他にはやっぱりないようですねえ。大宗教いえばキリスト教とか仏教とかありますけれども、その仏教でも説きえてないところ、いうならばキリスト教でも説き得ていないところ、それは、もうその んー色々たくさんあります。なかでも私が思うのに例えばキリスト教には十戒という戒めがあります。仏教には五戒という戒めがあります。ね、ですからその 金光教の教典の中にも御神戒というのがあります。けれども かい、そのかいの意味が違うんですね。んー例えていうとなるほど人間氏子であってできるというか、ね、んーいわば人間らしいというかね人間らしい宗教だということになる。んー。例えばその戒を破るといたしますか、そこには生きた働きというものがなくなってくると ね、とキリスト今日でいうならお酒を飲んではいけない、ね、まぁ方便はありますね。なんかあのぶどう酒かなんかだったら、そのいいと言われておるらしいですからね。仏教のぶんなりますと、私共知っとる限りでも随分あります。ね、第一、仏教に本当に帰依するという、帰依さして頂く第一にこの精進というかねその精進の在りかたが、まず第一に生草木を食べてはいけない。同時に妻帯をしてはいけない というような、とても人間ではでけそうにもないようなことを、いけないとこう言うてあるわけです。ね。
 だからそおうゆうところから見てもですね、たとえばほんなら今時おぼんさんで妻帯をしないというようなあー仏教は、まぁ一部にはあるかも知れませんけど、まずほとんどないでしょうし、おぼんさんでもやっぱり、お魚屋さんを裏口からこんにちはお魚いかがですかという、いうということだし。んーキリスト教だって同じような事がいえるのじゃないでしょうか。キリスト教のしん、ほんとにキリストに帰依した人はお酒を飲まんような、まぁ厳格な人もだんだん少なくなってきた のじゃないでしょうか。
 ね、それはなぜかというと、あまりにもむずかしすぎて、あまりにももう人間らくしないのです。できればまぁこの上にもないことかもしれませんけれどでもです。ね、そういう意味で、なら金光大神の場合はそうではない。ね。というて、んなら寛大と言う事ではない。大目に見ておくと言う事ではない。いわゆる人間らしい教えであり、人間らしい宗教だと。ね。例えばなら食物ひとつの事だってです、お酒であろうが、肉食であろうがね、魚食致しましょうがです、食物はみな人の命のために天地の神がつくり与えたもうものぞというように、金光大神を通して教えておられるのです。
 食物は人の命のためにあるものだという。ね、お酒だって??お肉だってお魚だって人間の命のためにあるものだ。だからありがたく頂く心を忘れなよというところに非常に重点が置かれています。ね、だから私は金光教のみ教えは例えばこの食物訓ひとつだってですね、私なるほど世界の名教に値する宗教だと思います。それもえー金光教の信心をさして頂きますと、第一天地のご恩徳と説かれますから、天地のご恩徳、例えばこの一粒みそひとすくいでも天地のお恵みに欲しないものはありません。しかも命のためにつくって下さったものだから、それを大事にしなければならんというようなまぁ、そういうところに今までえー私共の先輩の先生方なんかは焦点を置かれたようですね。例えばお醤油一滴でも綺麗にゆすいで頂くとか、この一粒でもお粗末にしない。これはもう食物だけじゃない、甘木の初代なんかはもうそれこそ枯れ木、一枝一葉でも天地の親神様の御物ぞというて教えられたくらいです。よる物を大切にするということですねー。だからそういうことはひとつのまぁ、りふうではある。悪いことではない。ね。ところが んなら食物、人の命のために与えられたものであるというか、食物なら食物のことだってですね、例えばまぁ今の生き方、そういうところがんまぁ合楽の信心はちょっとおかしいんじゃないかと言われるところがあるのはですね、私はもう天地の親神様が私共人間氏子のために下さったものをね、有り難く頂くということに焦点を置いてですね、それを粗末に使うといったようなことに非常に重点が置かれていないんですね。けどもそこには私は神様が喜んでくださる生き方を、求めていきよったらそういうことになったんです。私だって??昔修行中にはもうそれこそ、汚いものと汚いものの間に挟まって落ちておるような御飯粒でもひらいました。もうそれこそ、ひとすくいの水でも大事にさして頂きましたし、頬紙一枚だって大事にさしてもらいました。だからそれをね、いけないと言うのじゃない。けどもそういうことを言うてです、んならこれを私長くシナに居りましたから、シナの人に言うたって、アメリカならアメリカの人に言うたってです、とてもあのレストランなどに行ってから「あーあんたそんな事しよったら天地の親神様の罰があたるよ」と「きれいに頂きなさい」なんて言ったってですね、そんな宗教には合点しませんよ。
 私共この頃からその・・まぁ??の作物を東京行きの時頂きましたがね、もうそれこそ外人の方だって一緒に食事致しますと、ほんなごて勿体無いごとただ自分の好きなものだけ食べてある。ね、少し食べてからおいしくなかったらそのままポッともう捨ててしまうのです。勿体無いなぁと思いますけどもね、勿体無いという観点が違う。私の言う勿体無いはね、命のほうが勿体無いと私は思う???。命のために作り与えて下さるというですから、あーこれはもう・・ほんとちっとねまっとるごたるばってん、勿体無かけんちーてから食べてから、明日腹のせーたっちゅうたらいけますまいな。だから神様がいちっばん大事にして下さるのはこの命なんです。人間の命なんです。というてですよね、あれは好かんっこれはいかんというて、というのじゃない、例えば目の前に出されるところの食物なら食物でもです、ところがどうも私共はそういう習慣があるもんですからねぇ、勿体無い勿体無いが出てくるんです。私東京での2日目なんかは、その出てくるその食事を全部頂いてしもうとるわけです、勿体無いというのもあるし、珍しいいということもあるわけ。さあここしか食べられんとって・・というようなことなんです。どうもやっぱりそういう習慣が少し残っとる。大体私はそうです。かというて私は、皆さん私と一緒にお食事なさる方・・があればようわかんなさるでしょうけども、私はもう自分の好きな物を頂くときにはですね、もうそれこそお皿から綺麗に洗うてから頂きます
ね。けども魚があんまり食べきれませんから、私 魚を食べておる時には、まぁなんちゅう勿体無い食べ方されるじゃろうかというような食べ方しかできません。ね、ですからもうそりゃ楽しいです。お茶碗を濯いだ、お汁茶碗を????お皿を濯いで頂くということは、まぁそれこそ、お届けまいでもしとるような楽しさがあります。自分の好きなこと。だからそういうことはさわりゃしません。だから勿体無いと両方がそこにあるわけですけれども、嫌いなものやら、ねまっとりゃせんかというのを勿体無いと食べるようなことは決してしない、してはならないと私は言ておる。
 ここへ来て、みんなが一番たまがることはお手洗いの水がもうコンコンと、それこそいち????出ておることにびっくりするようですね。小倉の初代なんかはですね、もうある時にご本部からお話しにみえた。????のを御結界から座って見ておられるところを、お手洗いで、何杯でんこうこっやって手を洗われた。そいでご結界に上がって??の先生に「せっかく御本部からお話しにみえたけど、あなたのお話しは頂きません」と言わっしゃった。びっくりされたですね。なしかっていうとですね、金光様の信心頂いておる者がね、お水をあのような粗末な頂き方をするような先生の話は聞かれんというのです。なるほど、もうとにかく教祖金光様に一回お目にかかっておられます ね、桂先生も。そん時に頂かれた御教えがやはり水のご恩特だったらしいですね。ですからもうお水ということは、それこそお水によって御心水によって、命が助かる如しのものだから粗末はしないというのが生き方信条だったんです。でその同じ流れを汲んでおる者がですね、なら私、桂先生、福岡・久留米・善導寺私とまぁ代を継ぐにしたがってですねいうなら、そこんところが疎かになったかというとそうじゃない。そのことのね御教えがいよいよ本当なことになってきたというだけだと私は思うです。
 ね、ですからそういうところからねちょっとお話が横道にそれましたようですけれども、金光大神は一時が万事にそのような教え方に徹しておられますよ。人間らしい生き方。「お前金光様の信心すんなら嫁が持たれんぞ」なんていうことは仰っておられない。ね、それこそ家繁盛、子孫繁盛の道を説いておられる。このへんなんかはも少し説くなら素晴らしいですね。
 家繁盛子孫繁盛のいわば道ですから、やはり妻帯しなければ子孫繁盛にもなりゃしません。ね、問題はそのいただき方をいわば非常に説いておられます。そういうところで、仏教でいう五戒とかキリスト今日でいう十戒といったようなものがいかに人間に適応したものではないかと、あ まぁ極端な言い方ですけどもそういう感じがいたしますですね。本当にいわゆる仏教に帰依しようと思うたら、そうしなければおられんのですから。本当にぼん様はできなさらんでも、私の爺なんかはそれをやっぱ、やり抜いてきておるですねぇ。お寺さんの総代をして長く、もうそれこそ仏さまのように言われた人です。もうとにかく魚なんか せ さっしょう っちいうですかね、お百姓して百姓でしたけどね、??あげるときなんかもう魚は全部取りません。全部ほうじょういたします。ね。いわゆる仏様の教えておられることをほんとに実行しようとしたら、そうしなければ本当の信 仏教に帰依したことにならないのですよ。
 ですからもう大変なそこに偏見っとゆうかね、難しさというものを感じます。なら金光様の御信心は見やすいかというと、見やすいというとは思われない。けれどもその気になるとできる御教えばっかりです。例えばこの、これだけの100何十か条の神誡・神訓・御理解といったようなものがです、そういう難しいことはひとっつも仰っておられない。ね、それを例えば、一時難しくやはりなろうとしたわけですね。例えば水一すくいでも大事にせんの、ほら今時ですよ??こく紙一枚大事に粗末にしない、枯れ木枯れ枝でもって ていよんならうちあたりゃもう生活していかれんです。もう一偏使ったらばーんもう何でも捨てていくというのが今の時代ですからねぇ。これはもうほんとに、それだけぐらいたきもの????????????でもここあたりでしかたかないから、もう??焼いてしまいます。ね、だから神様はそういうお粗末なことをしてと仰るような神様じゃないということ。より人間があり難い生き方ができること。より命のために例えば頂く事であることを天地の親神は願うておられるということ。一すくいの水でも有り難く頂くということは有り難いけれども、それは勿体無いからというて、もう1ヵ月も前から汲んである水がずーっとあそけ汲んである、お手洗いの誰でん手でん洗おうごとなかごとなるでしょ。今でもありますよ。私この頃大阪行ってある教会行ったら、もう水がパッと止めちゃる。日本一の大きな教会です。私共が参りましたから、あー向こうから出てきてから水を出して下さいました。とても口を濯ごうとゆう気がいたしませんもう。懇々と湧いておるその水でこそ、手も清めさしてもらおう、口もゆすがせて頂こうという気がするでしょうが。ね。ですからここではあの御神水をみんなが頂いて帰られます。
 ね、神様はねもう無尽蔵に尽きることなく恵みに恵み与えて下さるものをです、私共が勿体無いけん使われんというて、いうことの生き方がどんなに間違っておるかということがわかるでしょ。もう一時が万事にそうです。これはもう私の生き方がそうです。ね。これはもうそこんところを言うと、??の信心のそういう意味での特徴ということは、もう限りがありませんですね。ま、そこで私は今日4節のところですね、確かに金光大神はそういう素晴らしい御教えを私共にしてくださって、しかも助かっていけれる道を教えて下さってる。してみるとなるほどここに天地の神様が言っておられますように、此の方金光大神があって初めて神が世に出たのであるから、神からも氏子からも両方からの恩人は此の方金光大神であるとこう言うておられます。
 一番最後のとこに、まさかの時には天地金乃神と言うに及ばんと、金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやると仰っておられます。この辺の所もこれは大事なところだと思いますね。ここでは金光大神という前に親先生ということを申されますね。まさかの時には親先生これが一番手っ取り早くおかげを受けるという、みんなが言われております。ね、それは恩取次ぎの一貫性と言っても申しましょうかね、天地の親神様は金光大神に教えられた。取次のわざがなされた、それを手代わり手代わりが私共がこうやっておかげを受けておるということはですね、よる金光大神の手代わりがそこにでけておる 生き生きと。そこで例えばいわゆる親先生と言うことは即金光大神ということになり、天地金乃神様ということになるのですから、親先生助けて下さいで助かるのであり、親先生有り難うございますで神様にも通う。いやむしろ親先生と言うた方がおかげが早いという体験を、みなさんが頂いておられるのはそういうことなんです。親先生というのと大坪総一郎というのは別ですよね。全然別です。
 親先生といやそこに即生神金光大神としての働きまたは天地金乃神様の働きというものと一貫性を持ったものなんです。金光教でいう御取次ぎ先生というのはね。そういうこともここではまぁ教えられておるとおもうですね。
 特にね私は今日は、天地金乃神と、いや金光大神の言うことにに背かぬよう良く守って信心せよということ。ね。金光大神は例えば五戒とか十戒といったような難しいことは仰ってはいない。金光大神は見易う誰でも出来るような御教えを下さってある。にも関わらず、私共は金光大神の言うておられることに背いてばっかりおることが多いことじゃないかということ。金光大神の教えて下さったことに背かぬようよく守ってと仰せられる。そこでね、私金光様の信心ははお詫びという信心が非常に強調されるところだとこう思うですね。
 願い、今月の焦点は願いに徹せよということ ね、今月は先月が修行月であり祈念力をつくるということ、だからその祈念力を持ってです私共が願おうと、先月鍛えた稽古さして頂いた信心を持って今月に活かしていこうと、願おうと。何でもかんでも願って願って願い抜こうとこういうのである。だから折角願うならばその願いが神様にも通いまた神様も喜んでくださる願いではなければならない。そういう願いに徹しようというのである。そこでね私共が日々朝の御祈念を、例えばその御祈念をさせてもらう時に、どうぞ今日も神様あなたのお心にかないます一日にでありますように。あなたのお言葉を背かんで済む一日でありますように、という切な願いというものが立てられたら素晴らしい願いになるだろう。ね。今日も神様どうぞあなたの心に添い奉る、お言葉に背かんで済む一日でありますようにということを切願する、切に切に願う。そのことが心に掛けられる。というてあなたのお心というてあまりにも大きいしいし、ですからせめて今朝の御理解の一言だけだっともまぁ行じさせて頂こうとということになるわけなんです。そのことを願い抜けということになったら、今年のね今月の願いに徹する願い月生き生きとしてくるだろうと思います。ね。どうぞ今日も、これほんとにね願わないかん。今日もどうぞあなたのお心に添い立て奉る一日でありますように。今日教えて頂いたこのことをどうでも、それこそ一生懸命で守り抜かせて頂きます一日でありますように。今日は不平はいわんぞ、今日は腹を立てんぞ、とありとあらゆる神様が教えて下さってある、神様がお喜び頂けれる御教えの一言でも、本気で行じようというのです。
 しかもそれをね行じようだけじゃなくて、切願になってくるんです。それが願いになってこなければならない。私は今日は特にここんところをですね、皆さんに強調しておるわけですよね。金光大神の言う事に背かぬよう、さぁそしていちんち締めくくってみてからですね、思うてみますと、ほんとにまた同じことを繰り返し繰り返しお詫びをしなければならないような事の多いのに、また驚きます。いわゆる背信行為です。心に背いておる。神様の御教えに背いておる。ね。それだからというてこの神様はです、??で昨日あんなことを言よってから出来んやったじゃないかとゆって罰を与えなさる神じゃなくて、よる天地の親神様としての清浄というですかね、天地の親神様としてのその心というか、それを持ってまた繰り返し繰り返し教えてくださる。そして詫びれば許してやるというのが親心じゃという風に結んでおられる。
 この辺が素晴らしいでしょう。だからというてその必ず失敗せろという意味じゃない。一生懸命努めておっても厳密にいうとあれも機関にかなわんことであったろう、あれも心に添わないことであったろう。このことだけはと思うて辛抱しておったけれどもとうとう破ってしもうたと。ね、けれども詫びれば許してやりたいのが親心だと。だから神様、明日はまたどうぞ、ね、このことに取り組ませて頂きますからと心を込めてのお詫びになってくる時に、そこにはもうそれを行じたと同じようなおかげが受けられておる。詫びれば許してやりたいのが親心だ。それを詫びもしないところにです、実意丁寧を欠ぐわけです。またそれを願いともしない。今日はお話を頂いたけれども、そのお話を本気でです、それは仕方がないといやぁまぁちょっとおかしいですけどね、ね、かみの一言は船にも車にも積めんほどの神徳があるのに氏子帰って良いようにするからおかげにならんと仰っておられるような御教えがあります。
 けれども確かにここでは、今日はと思っておるけれども、段々夕方になってまいりますと、それがだいぶ乱れてきておることに気付きますわけですけれどもですね、それを繰り返し繰り返し私いわゆる信心の稽古をさせて頂いておるうちにです、おのずとそれが金光様の御信心ぶりといったようなものが身に付いてくるというふうに思います。ね。??金光様の御信心はあーしてはならんこうしてはならん。例えばそういうことをいくもんかというような事でもです、御取次ぎを頂いて願えば、んならこんだぎりよと言うてお許しを頂けるほどしの神様。ね、こんだぎりよと言よってからまたお願いすると、この頃も頼んどったじゃないかとは仰らない。そうかというてまた聞いて下さる神様??。そういうかそれがね親神様だからなんです。こんだぎりでもう、こんだ今日もうこんだぎりでもうおやつはいらんと例えば言うてもですよ、またおやつが欲しいと言やぁ、ん この人ばっかりはというてやるようなもんです。ね、というて金光教の信心をそんなに寛大だからというて甘く見たらいけないということ。ね、絶えず私共がねよる願いに願いを持たせて頂くということがです、それに一歩ずつでも近付かせて頂く、それを信心の成長と言われております。
 あぁもう私は駄目、もう私はいかん。もうこんくらいのことも????????自分はもう駄目だというて自分をそういう風にみたり悲観したりする生き方はいけません。それこそ、乳飲み子が親の膝に這い上がっていくような無心さ無邪気さを持ってね、神様にはあぁまた失敗しました、と言えれる私は神様と私共であらなければいけないと思います。ね。それをまた失敗したと言いながら、だんだんそれがおかげを頂いていくところにです、あの人はこの人が頃変わりなさったということにまでなってくるんじゃないでしょうかね。とりわけ私はそこんところを「金光大神の言う事に背かぬようをよく守って信心せよ」ということをここに教えておられます。んなら守っておらなければまさかの時は頼まれんかというと決してそうじゃない。けれどもここに詫びがいる。まぁむしろ私はねもうむしろ、??なこというようですけども金光大神の仰っておられることはむつかしい事はひとつも仰っておられんけれども、それに背くということはです実に人間らしいことでもあると思うんです。ほんとは、そのことを宣伝するわけじゃないけれども、これはわたし20年の信心を振り返ってみてです、例えば大きな背きというかね、やる背信行為というか、そういうようなことのあったそのあとには必ず私は信心が飛躍しておることに気が付いております。だからそうゆう意味でです、ある意味で背信行為また有り難いです。金光教の信心はそのようにいわばその有り難いのですよ。こうしてはならんということじゃないと。ね。私のうちの若先生のあれでしけれども、改まりたい、改まりたいというてねいくら言うたって同しこと。必ずチャンスがある。だからこれではいけん、これではいけんという思いを段々強よめていけって言うてこの頃誰かに話しておるのを聞いてから、親父とあんまり同じようなことを言いよるなと私思うたことがあるんです。そげん今あんたが改まるていうて改まるはでけん。けどもいけんちゅうことをその思いを一生懸命強めていけっちゅう??。まぁそしてそのいけんて思っとることでも続けていきよったっちゃよかっち。神様がねそういゆう切実な願いを持っとるとね、必ずチャンスを与えてくださるです。そのチャンスがきた時にそんかわりグズグズせずにスパッといかにゃいかんよっという風な教え方をしとります。これは私共がやっぱりそうです。わたしは信心のまぁ飛躍を皆さんが感じられる時には、必ずその前にだから背信行為があっとったと言うてもいいくらいじゃないかと言うてもいいくらい。ね、ですから背信もまた有り難い。背信が続けられてはいけないけど、こんなことではいけんというてチャンスを願うという切実な願いの信心がねなされていくところに、えーおかげを頂かせてもらう。私がもう昔頂いた御理解なんですけれどもね、信心というものはそのようにしてだいたいが進めていくのじゃないかと思うんです。例えば信心の道というのをこうやって歩いていきよきよりましょう。ところがとてもとても難かしゅうして行けんところがあるんです。まぁあれからそこまで歩いていかなんじゃろかと思うようなところがあるです。そういう時にはねその馬で走れと頂いたことがあるんです。今のお知らせはここでは卑しい心と仰るんですね。だから今言う卑しい、こういう卑しい事を言うたりしたりしておるということがですね、溜まり溜まって、ね、普通では通れない所が一遍にスパーっと通れるんです。これは不思議です。もうそれこそなーんにもそのまぁ悪いこといっちょしきらんぐらいなとは金光様のご信心の本当の??が遂げられんというようなことになるんですね。今日の御理解頂きよりますと。とゆうてですそれが続けられておる、改められないではいけません。ね、そこへ神様が与えて下さるチャンスがあったらです、スパっとこう改めていくおかげ頂かなきゃいけません。金光様のご信心はそうゆう意味においてです、なるほど世界の名教だな人間がゆうならさして頂く信心だなといよいよ痛感させて頂きますね。どうぞ。

榎島多佳子